Ep.0

クロガ、ミツメルセカイ

肉躰にくたいから抜け出す才能のない自分を、これほどまでに呪ったことは、かつてなかった。
肉躰を捨てたいわけではない。しかし、この痛みから解放されるなら、肉躰をあきらめるのも悪くない。この肉躰が死んでも、生きるすべはある。

カデルは、白くにじむ月明かりを頼りに、暗い雑木林ぞうきばやしのの中をよろめきながら進んでいた。真夏にもかかわらず、夜風は冷たい。湿った空気が白いレザー製のジャケットの隙間をすり抜け、火照ほてった彼の傷口にひやりと触れる。枝葉のざわめきが背筋をなでるたび、先程の男たちがすぐ近くまで追ってきているような錯覚さっかくが胸をざわつかせた。青い緑の匂いに混じる泥と血の生臭さが鼻を刺し、脇腹からは、生ぬるい赤い液体が、蛇のようにうねって流れ続けている。淡く白い光を帯びたレザーパンツはところどころ破れ、泥と血の斑が、絵の具のようににじんで脚に貼り付いていた。足元の地面はやわらかく、踏み込むたびにわずかながらぬかるんだ音が小さく鳴った。それでもカデルは足を引きずり、前へと進む。止まれば、次に追手が現れるのは自分の真後ろかもしれなかった。

攻撃を受けた際、胸に着けていた通信用の端末スマートデバイスは破壊されてしまった。そもそも、明後日の儀式の連絡のため、ホテルへ帰宅するついでに立ち寄っただけの場所だ。発信機も携帯していない。唯一の連絡手段を無くした今、カデルは完全に孤立していた。

大した用事でもない。カデルが立ち寄ることも、あの村には知らされていないはずだ。
安請やすういなんて、するべきじゃなかった。だが、後悔している余裕はない。まだ歩ける。林もそう広くはない。真っ直ぐ進めば、やがて街のあかりが見えてくるはずだ。グラシナー大聖堂にたどり着ければ、東支部とも連絡が取れる。そうすれば、あのほこらにいた男たちのことも報告できる。

わずかな希望を握りしめながら、カデルは足を止めなかった。

カデルが生きているのは、非常に運の良いことだった。流質フローの使い方を覚えたばかりの彼が、その力を自在に操る相手から逃がれられた。もし腹を撃たれた拍子にがけから転落していなければ、あの場で命は刈り取られていただろう。泥と血にまみれながらも、こうしてまだ息をしている。脇腹に焼けつくような痛みを抱えてはいるが、この状態ですらありがたいものに思えてきた。

だが、カデルの身体は、すでに限界だった。脇腹に受けたのは、まるで石つぶてのかたまり。肉がえぐれ、鈍い痛みが絶え間なく意識をかき乱す。銃弾でも撃ち込まれたほうが、まだマシだったかもしれない。脚がもつれ、近くの木にもたれかかると、そのままずるりと座り込んだ。

寝てみようか……?もしかしたら——。

そう思ったとき、すぐ近くの草むらがかすかに揺れた。弾かれたように首を回すと、そこには一匹の猫がいた。月光を浴びた白銀の毛並みは、氷のように冷たく淡く輝き、その瞳は、まるで太陽の欠片かけらのように燃えている。このあたりは、ひときわ木々が濃く生い茂っている。人の手も入れず、自然のままの姿を残してある場所だ。自分の縄張りを黙って主張するかのようにカデルを見つめている。血の匂いを漂わせた人間など、ただ迷惑な侵入者だろう——そう思うと、カデルは申し訳なさを覚えた。だが、もう身体は動かなかった。痺れたように、手足が動くことを拒否している。

ここで死ぬわけにはいかない。

追手の目から逃れるには都合の良い雑木林だったが、人目につかないということは、すぐには助けも来ないということだ。せめて人通りのあるところまで出なければ、カデルが助かることはないかもしれない。カデルの胸には、じわりと言いようのない恐怖が広がっていった。

そのとき、しげみの中にいる猫が、ぴくりと耳を立てると、ふいにカデルの頭上を見上げる。カデルも視線を空に向けた。
宙には黒い塊が浮かんでいた。白く光る、丸く小さな目が、カデルをのぞきこんでいる。黒い毛におおわれた、鳥のような足と、洋梨ようなしのような輪郭りんかく異形いぎょう。それは音もなく、そこにいた。

——黒魂フォボス

探求士シーカーからも話には聞いていたが、こうして実物を目にするのは初めてだった。

「……普段、隠れてるくせに。こんな死にかけの俺の前なら、出てきても構わないってわけか……?……ボロボロの、こんな肉躰にくたいでさえ……お前は、欲しいのか?」

かすれた声で吐き出す。空中に浮かぶ黒魂は、傷だらけのカデルを見ても、何の感情も揺さぶられないかのように、微動だにせず、カデルを見下ろしている。

すると茂みから、猫が低く身を沈め、静かに距離を詰めてきた。その目には、獲物えものを仕留めようとする狩人かりゅうどのような鋭さが宿り、黒魂をまっすぐと捉えていた。瞬間、迷いなく猫は黒魂に飛び掛かった。だが、猫の爪は届いたはずが、黒い塊を通り抜けてしまい、その体はただ空を切っただけだった。着地と同時に振り返ると、猫は再び目を細め、なおも追う気満々のようだ。どうやら、あれを餌とでも思っているらしい。カデルは、思わず小さく笑ってしまった。知らないというのは、時にこんなにも無防備で、かわいらしい。

カデルの中に、気力が戻り始めるのを黒魂フォボスは察した。鬱陶うっとうしげに足をもたつかせると、その姿がふっと揺らぎ、空気に溶けるようにして消えた。少し離れた場所にまた現れ、再び消え、そしてまた現れる。そうして少しずつ、黒魂はカデルから距離を取っていった。猫もすぐにそれを追い、茂みの奥へと音もなく消えてゆく。細い尾の先が最後にちらりと揺れ、それもやがて闇に溶けた。その光景をぼんやりと目で追いながら、カデルの意識は、波にさらわれるように、黒の世界へと落ちていった。

落ちる先は、現実との狭間はざまか、それとも——。


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