Ep.1

カゲリユクセカイ

母のひつぎが、音もなく地中へと沈められていく。神官は、棺の前に立ち、左手を首元に添えると、祈りの言葉を口にした。

「高き御霊みたまよ、この冷たき身を受け入れたまえ。
空白をいだく者らに、なお御光ごこうきざしあれ。
この沈黙にこそ、すべての魂にやすらぎ、あらんことを」

神官の合図とともに、修士官たちがくわを取り、土を重ねはじめた。サニはその音に背を向け、何も言わず走り出した——。

早朝五時前、サニ・アレストラは街外れの坂道を駆け上がっていた。
空気はみ、ひんやりとしている。七月とはいえ、サニの住むエズミアの朝は冷える。まだひとけのない通りを抜け、サニは丘上のグラシナー大聖堂へ向かっていた。朝焼けを思わせる細い橙色の髪が風に揺れ、かすかに光を帯びる。街にはまだ、みず駆動エンジンしゃの音も電子ディスプレイ広告のさわがしさもない。石畳いしだたみひびくサニの靴音だけが、レンガの壁に跳ね返ってくる。
十五歳の彼は、毎年この日だけは、どんなに眠くても、自分の足で大聖堂へ向かうと決めている。

坂を上るにつれ、甘く青臭い樹脂と湿り気を帯びた土の匂いが雑木林ぞうきばやしら流れ、街全体も見渡せるようになってくる。街には橙色だいだいいろの屋根が並び、起きたことを知らせ合うかのように白い煙が立ち昇る。遠くの山のふもとにはうっすらきりがかかり、隣では夜を閉じ込めたような黒紫色くろむらさきいろをした、細く巨大な直方体ちょくほうたい——黒紫塔モノリスが街を見下ろしていた。とうのようなその遺物いぶつは、この街ができるずっと前からそこにあり、いつどのようにしてできたのかは、この街の誰も知らない。母も、黒紫塔の正体を調べる考古学者の一人だったが、その謎を解明できないまま、この世を去ってしまった。

やがて、見慣れた大聖堂の尖塔せんとうが姿を現す。朝露あさつゆれたトウヒやモミなどの木々に囲まれた石造りの外観には、長い歴史の重みが漂う。日中にぎわう大聖堂前の広場は、まだ人影もなく、静まり返っていた。サニは裏手に回り、古びた木扉もくひをそっと開け、中へ入ろうとしたそのとき、ふと背後に視線のようなものを感じた。振り返っても誰の姿もなく、気のせいだろうと扉をくぐる。木陰こかげから見つめる眼差しにも気づかぬまま。

薄暗い通路を進むと、礼拝堂れいはいどうに出た。祭壇さいだんを囲む燭台しょくだいには、すでに細い炎が揺れている。湿った地下室のような匂いに、蝋燭ろうそくの甘く焦げた香りが混ざり合って鼻の中を満たす。ステンドグラス越しの日の出の光が、石畳に赤や青の色をまばらに落とし、壁面へきめん彫刻ちょうこくは、灯火ともしびを受け、その影はまるで生き物のように揺れ動く。この神秘的な光景を目にすれば、神のような存在がいてほしいと願う気持ちも理解できた。

北方圏ほっぽうけんでは、沈黙ちんもくを重んじるセレイス教が広く信仰されている。このグラシナー大聖堂は、セレイス教における重要な宗教施設のひとつだ。サニの母もセレイス教の信者だったため、幼い頃から母につれられ、よくこの大聖堂に来ていた。神官たちの様子を見ていれば、信仰が人の心を支える大切なものだということは、子どもながらにも肌で感じ取ることができた。

しかし、サニの中に信仰心は根づかなかった。サニには、母のように神へ祈る理由が見つからなかった。
神を否定しているわけではない。目に見えないものを信じていないわけでもない。ただ、祈ったからといって何かが変わるとは、どうしても思えなかった。変わるのなら、母は今もこの世界にいたはずだ。
それでも、毎年この日はかねをを鳴らす。祈りという言葉がふさわしいかはわからない。けれど、母が抱いていた夢——『黒紫塔モノリスの謎を解く』という夢を、今も自分は追いかけているのだと、鐘の音とともに母へ伝えたくて。

「おはよう、サニ」

振り向くと、マルク大神官が礼拝堂の入口に立っていた。金の刺繍ししゅうがあしらわれた灰色の法衣ほういに身を包み、胸元では六つの六角柱が輪をなす氷をかたどった銀の紋章が、鈍い光を返す。整えられた白髪交じりの長い黒髭と、穏やかに光る土色の瞳。落ち着いた空気感は、サニが子どもの頃から変わらない。

「よく来たな。今年も顔を見られて嬉しいよ」

サニはそでで汗を拭い、少し照れくさそうに笑った。

「もうちょっと早く来るつもりだったんだけどさ。少し寝坊した」
「ほう。だが、まだ定刻ていこくよりもずいぶん前だ。成長したものだな」

マルクはサニが幼い頃から世話になっているセレイス教の聖職者の一人だ。今では老若男女問わず誰もが慕う大神官として、この大聖堂を任されている責任者だ。サニの両親や姉のこともよく知っており、母が亡くなってからは、何かと気にかけてくれる、サニが信頼できる大人の一人だ。

「もっとも、授業中には相変わらず眠りこけているそうだがね。よだれではノートに文字は書けんぞ」

マルクがそんなことまで知っているとは思わず、サニは目を丸くした。誰が話したのかと考えてみたが、思い当たる人物が多すぎて絞れなかった。マルクには隠し事ができないようだ。それでも、その目には、なつかしさとどこかほこらしげな色が浮かんでいた。

「今年でサニも十五歳だな。早いものだ。ついに明日で、この街では大人の仲間入りか」

マルクは感慨深かんがいぶかげに目を細めるが、サニはぎこちない笑顔を返す。

エズミアでは、その年に十五歳を迎える子どもを成人とみなす儀式『昏渡くれわたり』と呼ばれる古い風習が残っている。毎年七月十五日の夕暮れ、新成人たちは白いローブをまとう。火をともしたランタンを手に中央広場に集まり、一斉に黒紫塔モノリスへ向けて行進するのだ。その光景を一目見ようと観光客が押し寄せ、街は普段以上ににぎわいを見せる。
しかし、見世物にされる新成人には迷惑な話だった。サニのクラスのグループチャットには、一週間前から儀式に参加をしたくないという愚痴ぐちが飛び交っていた。夏休み中とはいえ、この時期になると親や地域の大人が結託けったくして必ず参加をさせるため、逃げ場はない。毎年この頃には、あちこちで新成人の溜め息や不満の声が聞こえてくる。

「ま、法律ではまだ子どもだけどね」

サニの茶化しにも、マルクはただ目を細めて笑ってくれた。

「口だけはすっかり大人びてきたな。でも、法律はそうは言っても、人生は待ってくれんぞ?気づけば、大人として選ばねばならん時がすぐ来るものだからな」
「選ぶって、何をさ?」

マルクは聞いてくれるのを待っていたと言わんばかりに、得意げにひげをさする。さすがは大神官。説教が好きなようだ。

「生き方、だよ。どこへ進み、何を背負い、何を置いていくか。その方向を自分で決める。明日の儀式は、自分と向き合うための節目でもあるのだよ」

その言葉を聞いて、サニも得意げにあごをさすると、鼻を鳴らした。

「それなら、俺はもう決まってるよ、生き方!」

マルクが少し首を傾け、髭をさすると、すぐ合点がてんがいったように髭から手を離した。

「そうだったな。お母上の夢を継ぐのだったな。変わっていなかったのか」
「そりゃね。母さんの夢だった、黒紫塔の謎を解明かいめいするって決めたんだからさ。ずっと変わらないよ」
「変わらぬこころざしは立派だが、それを支える土台が少し心許こころもとないのがな……」

マルクは口元をゆるめ、わざとらしく肩をすくめて見せると、サニは後ろのかみでて苦笑いするしかなかった。マルクもそれ以上は何も言わず、ふと視線を外した。

少しの静けさが流れた。
マルクは、燭台しょくだいの炎が揺れるのを見つめ、視線を祭壇上さいだんうえのステンドグラスへと向けた。救いを求めるような、待ち望んでいるかのような、あるいはちかっているのか——左手を首元で丸めて、ステンドグラスの中心をじっと見つめている。

「黒紫塔の謎を解明する……か」

マルクがそうつぶやいた。
彩られたガラスの中央には、青白い月明かりの下、ひとりの人物が目を閉じ、岩に腰掛けている。氷におおわれた大地、頭上を飛ぶ夜鳥やちょうの影、手にひとつ舞い落ちる大粒の雪の結晶。沈黙の中で自然と調和する様子が丹念たんねんに描かれている。
その周囲には五つの絵──入口で口をつぐみ一礼する童子どうじ、口元を布で覆って筆を止める書記、争いを制して手を結ぶ二つの影、泉に映るおのれひとみを見つめる老女、最後の言葉を巻物へとつむぐ青年──が、中央の人物を守る星座のように連なっている。
ステンドグラスの光が、マルクのほおを静かに照らしている。長く伏せた睫毛まつげが揺れ、言葉にはならない想いが静かに灯っているようだった。

「叶うといいな……」

その声は穏やかで、んでいた。けれど、そこには不思議な距離があるように感じられた。まるでそれは、自分とは関係のない赤の他人の話へ返事をするかのようだった。

「さて、鐘は例年れいねんのように任せよう。今日は君の朝だからな。上でティオが鐘の準備をしている。行っておやり」

サニの肩に手を乗せると、マルクは礼拝堂の入口へと足を向け、去って行った。

サニは石階段を登ると、鐘塔しょうとうの内部に出た。石壁でできた高い天井には、木と金属が組み合わさった骨組みが広がる。塔の中央には、こけでも生えているかと思わせる、古びた大きな鐘が吊られ、そのかたわらでは赤毛の青年が作業服の袖をまくりながら金具を点検していた。

「ティオ!」

サニの呼びかけに、青年が顔を上げた。

「おお、サニ!今年も来たか!」

ティオは大聖堂近くの修道院に住む十九歳の修士官だ。彼を見かけるようになったのは五年前。いつの間にか鐘塔しょうとう修繕しゅうぜんや雑用をこなしていた。当時はぶっきらぼうで、人と目を合わせるのも苦手そうだったが、手先が器用で鐘塔の仕組みもよく知っていた。
詳しいことは知らないが、マルクの話では、ティオは孤児院育ちで、少し荒れた時期もあったらしい。時折見せる悪戯いたずらっぽい笑顔に、その名残なごり垣間見かいまみえる。だからこそサニとも気が合うのだろう。今では穏やかで礼儀正しいが、寝癖ねぐせのまま作業に出てくるあたり、ずぼらな性格は相変わらずだ。

「ずいぶん背が伸びたな。身長伸ばすために、今年も寝すぎて遅れて来るかと思ってたんだけどよ。去年なんて、寝ぼけてシャツ前後ろ反対に着たまま飛び込んできたってのに」
「そう言うティオは、全然成長してねーだろ。今もその頭、塔の飾りと見間違えたよ。鳥が頭に巣作るぞ?」
「バカ言え、それが目的に決まってんだろ?鳥にも居場所を用意する、心優しい修士官ってやつさ」
「また適当なこと言って……」

ティオはにやりと笑い、サニの首を腕でがっちり挟むと、頭に拳をぐりぐりとこすりつけた。

「よく来てくれた!ちょうど手が欲しかったんだ!手伝ってくれ」

器具の掃除や留め具の確認を手伝い始める。鐘塔内は外からの印象とは違って意外に広く、整備道具がきちんと並んでいる。年季の入った空間だがほこりはほとんどなく、修士官たちの手入れが行き届いていた。修士官が毎日交代で鐘を鳴らしに来ているのだから、当然と言えば当然だ。二人は定刻の鐘に間に合うよう、手早く作業を進めていく。

ふと、上から木がきしむ音がした。見上げると、はりかげで何かが動いている。

「ティオ、あそこ、何かいる」

二人で目をらすと、差し込む光に照らされ、白銀の毛並みが現れた。
銀雪猫ニヴァリスネコ。エズミアのような北方でも、めったに姿を見かけることのない希少な野生猫だ。この辺りにも生息しているとは聞いていたが、本物を見るのは初めてだった。

「鳥が入り込むことならあったけど、銀雪猫がこんなとこまで入ってくるなんてな。初めてだ」

天井近くの開口部かいこうぶに付けてあるはずの動物侵入しんにゅう防止用ぼうしよう金網かなあみが大きく外れている。そこから入ったのだろう。はりの上でのんきに毛づくろいをしているが、装置に巻き込まれかねない位置にいる。外へ逃がしてやらなければ危ない。

サニはすぐさまはしごを登り、梁の上へと移った。近づいてくる橙頭だいだいあたまに気づいた猫は、大きなあくびをひとつして、ゆっくりと歩き始めた。サニは骨組みの間を次々跳び移り、難なく登っていく。間合いを詰めようとすると、猫もするりとさらに上へと移動していく。

「助けてやろうってのに——」

ぼやきながらも、サニは隣の細い足場へと跳び移る。下から「気をつけろよ!」とティオの声が飛んでくるが、猫に集中しているサニは耳を貸さない。猫も負けじと動き回り、サニと猫は天井を駆けまわった。多少開けているとはいえ、よくそんな細い骨組みで猫と同じように跳び回れるもんだ、ありゃまるで猿だな、とティオは下からその様子をながめながら思った。

しかし、銀雪猫ニヴァリスネコは突然動きを止めると、サニの真上を見上げた。黄金がはめ込まれたかのようなひとみが、じっと一点を射抜いぬいている。獲物を狙うときのように、尻尾しっぽをまっすぐ寝かせて身をせる。サニもつられてその視線を追ったが、そこにはただ一匹の小さながとまっているだけだった。どうってことのない虫だったが、猫は動かず、じっと蛾のほうを見続けている。その蛾を見上げながら、ふと、SNSで見たあるうわさ脳裏のうりをかすめた。

——銀雪猫ニヴァリスネコには、不思議な力が宿っている。
——人間の善悪を見極みきわめる目を持っている。
——あの世とのさかいを知っており、時に人をその向こうへ導く。

サニは猫を見つめた。まるで、こちらには見えない何かを見ているようだった。そう思った瞬間しゅんかん背筋せすじに冷たいものが走る。

「まさか、な……」

サニはごくりとつばを飲み込んだ。
だが、猫はその蛾を捕まえるわけでもなく振り返ると、軽やかに塔の開口部へ跳び移る。サニはあわてて猫を捕まえようとするが、猫は身をかがめると、ふわりと塔の外へ飛び出してしまった。

落ちた——!?

サニは開口部から下をのぞく。猫は大聖堂の外壁の突起とっき装飾そうしょくを器用に使い、すべるように降りていた。地面に降り立ち、大聖堂を見上げてサニと目を合わせてくるが、猫はなぜかその場にとどまり、裏口付近の雑木林のほうを時折見やっては動かない。一拍いっぱくの後、サニに向かって小さく鳴くと、見つめていた木立とは反対側へ、茂みをかき分け走り去っていった。サニは呆然ぼうぜんとその姿を見送った。

「もう降りてこい!危ないぞ!」

ティオの声で我に返る。サニは一度天井を見上げた。蛾はまだ、そこにとまっていた。小さく息を吐き、骨組みを手早く降りる。眉間にしわを寄せて叱るティオをよそに、サニはとりあえず猫が無事に外へ出たことに胸をなでおろしていた。ティオもその様子を見て、ふっと頬をゆるませた。

もうすぐ六時になろうとしている。

今日——共暦きょうれき二〇五一年七月十四日は、サニの母が亡くなってから七年経つ。サニがまだ八歳だった頃、母はこの世を去った。

昔、無理を言って、黒紫塔モノリス調査ちょうさへ向かう母について行ったことがある。あれが初めて黒紫塔を間近で見た日だった。整備されたなだらかな山道を登っていくと、木立が途切れ、小さな広場が現れた。その中央に、巨大な黒紫塔がそびえ立っていた。あのときに感じた圧倒的あっとうてき存在感そんざいかんは、今でもはっきりと覚えている。
最初のうちは母のそばにいたものの、すぐに飽きてしまい、虫を追い回したり、石をって遊んだりしていた。母はというと、黒紫塔を器具で軽く叩いたり、耳を押し当てたりしながら、夢中で手帳にメモを取って調べものをしていた。便利な機器はいくらでもあったのに、母は手帳など機械に頼らない手段を好んでいるようだった。
日がかたむき始めたころ、作業が終わり、二人で手をつないで山を下りはじめた。ちょうどそのとき、遠くから大聖堂の鐘の音が聞こえてきた。母は立ち止まり、しばらく音に耳を澄ませたあと、夕焼けに染まる大聖堂を静かに見つめていた。そして、左手をそっと丸めて首元に添え、祈りを捧げた。何を祈っていたのかはわからない。ただ、その横顔が強く胸に残っている。今でも、目を閉じれば、ありありと思い出せるほどに。

しばらくして、母は体調をくずすようになり、寝ていることも多くなっていった。母が入院してから、病院へ通う日が続いた。
その日も、父と姉と三人でお見舞いに来ていた。調光ちょうこうパネルの光に照らされた病室は静かで、壁のモニターには母のバイタルが、波紋はもんのように広がる光で映し出されていた。母はベッドに横たわったまま、顔色はよくなかったが、ゆっくりと笑ってくれた。父が医師と話すために部屋を出て、姉もその後を追って行った。病室にはサニと母だけが残された。

「サニ……こっちおいで」

母が弱々しく手を差し出す。サニはベッドのそばまで寄り、差し出された細い指をにぎった。

「あなたは……ほんとうに、まっすぐな目をしている。でも……前だけを見なくていいの。困ったときは、周りを見て。自分の中にあるものを、大事にしてね」

サニは意味がよくわからなかったが、ただ「うん」とうなずいた。母はそれを見て、安心したように目を細める。

「……きっと、あなたは誰かの力になれる。そういう子よ」

その直後だった。母が急に苦しみ出すと、ベッドわきのセンサーが反応し、照明の色が変わった。看護師が入ってきて、すばやく装置を切り替えながら、母の処置の準備を始めた。医師の後を追うように、父と姉も急いで駆け込んでくる。サニは、処置が始まるその瞬間まで、母の手を握りしめたまま、動けなかった。
サニが手を離すと、母はサニに向かって力なく、笑みを浮かべた。そして、まぶたをそっと閉じたきり、もう二度と目を開けることはなかった。

葬儀そうぎのあとも、サニはなかなか気持ちを立て直せなかった。それでも、人前で泣くことはなかった。家でも、学校でも、ふだん通りに振る舞おうとした。母が見たら、きっと笑ってくれる気がしたからだ。
けれど、ある晩、ふと、母の仕事部屋へ入ったときのことだった。棚の奥から、母が使っていた手帳を見つけた。ページをめくってみたが、わからない言葉も多く、サニには何が書かれているのかあまり読めなかった。それでも、あるページで自然と手が止まった。ページの右下には不器用な線で、大聖堂と、それを見つめながら手をつなぐ親子の姿が描かれていた。そして、日付を見てすぐに気づいた。それは、黒紫塔モノリスを初めて見た日。鐘の音を聞きながら、母が祈っていた、あの夕暮れの光景だと。
その瞬間、胸の奥で何かがほどけた。声にならない息だけが喉をふるわせ、せきを切ったように涙があふれた。サニはそでで乱暴に涙をぬぐうと、もう一度、母の描いた絵をじっと見つめた。

母さんの夢は、まだ終わっていない。

翌朝、サニはマルクのもとを訪ね、かねを鳴らしたいと頼んだ。なぜ鳴らしたいのか、自分でもうまく言えなかった。けれど、あの鐘の音に、母への報告を乗せたい、そう思った。
それから毎年、母の命日めいにちには大聖堂へ足を運ぶようになった。朝一番の鐘を鳴らし、夢を忘れないために——母へ語り掛けるように。

ティオに配置に着くよう指示される。サニはロープに手をかけ、いつでも鐘を鳴らせるように身構えた。息をゆっくりと吐き、心を静めると、サニはまっすぐと前を見た。今年も、鐘を鳴らす——。
時計の針が一直線に並ぶと、ティオが小さくうなずき、合図を送る。サニは勢いよくロープを引き下ろす。装置が連動して巨大な金属の鐘が揺れ始める。重く澄んだ音が空気を震わせ、街中を包んでいく。

二回、三回——。今年は黒紫塔の奥にある山の中も少し調べてみたこと。学校の帰り道に、よく黒紫塔まで足を運ぶようになったこと。その分、授業中にうっかり寝る回数が増えてしまったこと——サニは鐘の音に重ねるようにして、母へ一年の報告をしていく。
そのたびに、胸の奥で静かに火が灯るようだった。あの夕暮れに見た、母の横顔。今でも、あの記憶が、自分の中にまっすぐ根づいている。サニは迷いなく、五回、ロープを引いた。
鐘の余韻よいんが空へと溶けていくなか、朝日が瞳を照らす。遠くには川が銀の糸のようにきらめき、電車も走り始めていた。サニは左手を丸め、首元に添えて、黒紫塔を見つめた。母と同じように。
遠くに見える黒紫塔の影が、いつもよりも少し濃く見える気がした。

下の階に降りると、修士官たちが修道院での朝の祈りを終え、各々の仕事に取りかかっていた。ティオも別の準備があるようで、軽く挨拶あいさつわすと、作業室へ向かっていった。サニもマルク大神官に挨拶して帰ろうと、大神官の控室ひかえしつへ向かった。
控室の扉をノックする。しかし、返事はなく、声をかけても反応はない。念のため扉を開けて中をのぞくが、誰もいなかった。

裏口を出て、周囲を見回すが、外には誰も出ていない。近くを歩いていると、サニの視界のはしに茂みの奥で動く人影が映った。マルク大神官だった。一見わかりづらい茂みの中に一人立っている。
声を掛けようとしたが、サニはその様子に違和感を覚えた。大神官は一人でいるはずなのに、誰かと話をしているように見えた。真剣な表情で身振りをまじえ、時には語気を強めて誰かを叱っているかのようにも見える。そんな顔はこれまで見たことがなかった。

いぶかしげに大神官を眺めていた、そのとき、首筋の皮膚ひふがぞわりと泡立った。

突然、マルク大神官はぴたりと動きを止め、サニのほうへ目を大きく見開いて顔を向ける。まるでサニがそこにいるのがわかっているかのような動きだった。視線がぶつかり、サニは息を呑む。足が動かず、その場にい付けられたかのような感覚に襲われる。何か見てはいけないものを見た——そんな直感が全身を支配した。

しかし、マルクの表情は、すぐにいつものやわらかいものとなった。だが、目からはするどく刺すような冷たさが感じられる。
サニは一歩後ずさる。心臓の鼓動こどうみょうに早い。向けられた笑みに、なぜか肌寒はだざむさしか覚えなかった。まるで目の前の人物が、見知った誰かの仮面をかぶっているかのように感じられた。

遠くでは、黒紫塔モノリスが朝日を浴びて、山の奥へと影を伸ばす。その影は、かえって夜よりも深い沈黙をはらみ、うごめき始めていた。


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